昭和四十七年六月二十日
x御理解第二十五節
「信心は大きな信心がよい、迷い信心ではいかぬ、一心と定めい」
大きな信心、これは大きなおかげが頂けれる内容を持った信心でなからなければ、大きな信心とは云えないと思う。
只大きな事を願うておる事が、大きな信心という事じゃ無い、大きなおかげの頂けれる、云うなら限りなくおかげが頂いていけれる信心を、大きな信心だと、今日はそういう意味で頂きたい。
誰でも大きなおかげを頂きたい、昨日お夢の中にz「合楽行進曲」という事を頂いた、何ともお夢の中では素晴らしい文句を頂いて、合楽の信心をいよいよ進めた上にも進めて行く、しかも進めていくというのは、例えば進軍ラッパを吹いて、そして突進して行くように、何かそこにそういう元気の出るリズムといったようなものがいるのです。行進曲と云うのはそういう事だと思うです。
合楽の信心、勿論、金光教合楽教会の信心ですね、合楽教ではないですから、金光教合楽教会の信心の進め方と云うものが、いわゆる進めに進めて行くと、しかもひとつの進め方の上にはリズムを感ずる、最近云われる自然と偶然、そこに一致点も出して行く等は、もう本当にそこにリズムを感じますよ、そういう信心を進めて行くそんなら進めて行くなら、進めていっただけ、おかげが広がって行く、おかげが大きくなって行かなければならない、信心を只、そうにゃしていきよるけれども、おかげの方は伴うていかないと云うならおかしい、いわゆる大きな信心じゃない。
大きな信心とは大きなおかげが頂けれる、この調子で行けば必ずおかげが頂けれる、昨年よりも今年、今年よりも来年というように年勝り、代勝りのおかげ、日勝り月勝りのおかげが受けてゆけれる信心、そういう信心を大きな信心だと思う。
いつでしたかねえ、私が数字のz8が横になっとるお知らせを頂いた、8 こんな風に、だから私は御理解に、これはどういう事じゃろうかと云うて、私の頂いておる範囲でお話させて頂いたら、秋永先生達夫婦がここでお届けをされます、先生あれは無限大の記号だと、だから今日の御理解の意味が、尚一層分かりますと云うようなお届けがあった事が御座いました。
私が8の字が横になって8となっておる、だから腹がよじれるようにある、丸いのをこうやるとよじれるでしょう、だから私はその時、そういう風な御理解を聞いてもらった。
もう本当にこればっかりは許されないと、もう本当に腹がよじれるごとある、そういう時を大事にしていけばね、お徳が受けられると云う意味の事、だからそういう生き方を、信心の身につけていくならばです、いよいよ限りない、無限大のおかげが頂かれると云う風に聞いて頂いた。
ですからそれは、どういう事かと云うとです、成り行きを大切にするとどういう事であっても、それは腹の立つような問題であっても、それを大切にするという事であり、それを神様が私に求め給う修行であると頂き、又はだからこそ、それに御の字を付けて、御事柄として頂くという事だと、と云う風に頂いておる。
昨夜、そういう合楽行進曲と、これは本当に誰かにそういう作詞作曲をしてもらうと、本当にそういう事が出来るかも知れん、そして同時にこれは小唄のようにして頂いたのですけれども。z「咲いた桜が柳に聞いた、梅が答えて信心辛抱」 と頂いた
咲いた桜が柳に聞いた、梅が答えて信心辛抱、と、いつも私が申しますよね、合楽の信心のこれはひとつの理想境だと、本当に大きなおかげを頂かせて頂く為に、こゝの信心がどうでもなされなければならない、お互いが柳の性格の人もあれば、桜の性格の人もある又は梅の性格を持っておる人もあるのである、けれども合楽では、この三つを一つにしたようなおかげを頂きたい、そういう信心をさせて頂きたい。
「梅の香を桜に持たせ、しだれ柳に咲かせたい」大変欲張ったようですけれども、私はおかげの欲張りという事は、大変尊い事だと思う、大きなおかげを受けたいと云う一念ですから、どうぞ大きなおかげを頂かせて下さい と願うだけではない、それには大きなおかげの頂ける信心をさせて下さいと云う願いが、祈りがなからなければならない。
まあそれぞれ自分の個性と云うか、性格というものを、私は柳の性格だろうと、私は桜の性格であろうと、私は梅の性格であろうとまあ自分で感じ取らせて頂いてです、そんならば梅の人であるならば、桜が欠げとる、柳が欠げとると分からしてもろうてです、その桜の信心も又新に頂いていこう、梅の信心も又、柳の信心に併せて頂いていこう、という頂き方にならなければです、いわゆる大きなおかげにならないですね。
桜の花的な信心であったら、成程一時はパ―ッとおかげ受けるかもしれんけれども、散りやすいとこう仰る、後はもうサッパリである、だからそんなら桜の花の咲くような、云うならば華やかなおかげを頂きたい、けれどもそれがです、頂き通しに頂いていく事の為に、いよいよ柳のような素直さを頂きたい、自分には素直さが欠けておるなら、いよいよ素直さを願っての信心にならなければならない。自分はどうも人のごと信心辛抱が出けん、ならば梅の花の信心が欠げておるのであるから、ひとつ苦しかろうけれども、辛抱しぬかせて頂いて、信心辛抱の徳を身に受けると、もうそれは辛抱ではない、有難いという事になってくる。合楽の信心のこれは、理想境だと思う。
合楽の御大祭なんかを拝ませてもらうと、成程何とはなしに桜を感ずるような気が致します、華やかです、ですからこれは私の持ち札であるとするならば、これはどちらかと云うと無精者ですもんね大坪の家は、云うなら辛抱が出来ない、そこでそんなら泣く泣くでも、信心辛抱しぬかせて頂いて、それこそ血の涙の出るような辛抱もさせて頂きよったら、その血の涙が有難涙に変わってきたと、これは精進努力によって、信心辛抱の徳を身につけてきた。
まあ素直さと云えばなんとはなしに、私の信心の中に有るような気がする、まあちょっと馬鹿んごたるところがある、まあそれを自分の持ち札であるとするならば、私にはどうでも欠げているのが信心辛抱。いよいよ梅の花の信心を、いよいよ欠げておると自覚していよいよここが信心辛抱のしどころだと、気付かせて頂いたら辛抱しぬかなければいけません。
ですから成程、桜の花の咲くような華やかなおかげも、と同時にです、その内容としては梅の花の信心があり、柳の素直さの信心がその内容にあるから、いよいよ狂いが無い、間違いがないという事になるのです、大きな信心です。
柳、桜、それに梅の信心を頂いていったら、これは間違いなく大きなおかげを頂いて行けるのですから、そういう信心を大きな信心と云うと私は思う、大きなおかげが受けていけれる、その道すがらにはです、それこそ8の字を横にしたような、苦しい思いをする事が有るかも知れん、これは病気なら病気で8の字が横に寝とる時ですから、腹のせき殺す程苦しか事があるかも知れん、又は人間関係でも、今日ばっかりは、いよいよ心に治めかねるごとあったけれども、辛抱しぬかせて頂いたと云うような事が有るかも知れん、それが無限大につながる信心辛抱だと分からせて頂いた。
私は昨日ここで、昨日の朝の御理解を思わせて頂いとりましたらいろいろと頂く事があった、お互いが例えば一切を合掌して受けて行くという事、御事柄として受けて行く、全てが神様のこれは貴方に対して求められるところの信心なんです、一人一人に違う、起きてくる事柄も違う、内容も違う、それは赤い事もあれば青い事もある、白い事も、いろいろである、自分の都合の良い事だけは、有難いと合掌して受けるけれども、自分のいやな事は、受けられない事でもないその事も、神様が求め給うところの修行であってみれば、それも矢張り合掌して受けなければならない、御事柄として受けなければならない。
私は昨日、合掌して受けるという事の意味を、昨日初めて頂いた気がするのです、そういうね、御事柄として受けなければおかげにならんから受ける、と云ったようなおかげの受け方では合掌ではないという事、そういう一切をね、御事柄として、神様のお心として神様の私に求められる修行として尊ぶ心、一切を尊ばして頂く心。神様を尊ぶというけれども、神様を有難いというけれども、神様だけを、お社だけを尊んで拝んだり、有難かったりするのじゃない、神様の働きそのものを尊ばねばならん、有難く頂かなければならん神様の働きそのものを有難く頂かなければ、神様を尊ぶと云うことではない、これはいつも頂いておる事なんです。
だから尊んで頂くというのではなくて、その事を懐かしむ心と昨日頂きました。私はそれ頂いてですねえ、初めてその尊ぶというその心とです、それを懐かしむという二つの心が合掌になる、合掌して受けるという事は、そのような事なんだ。
してみると、これはやっぱ容易い事じゃないなあ、とこう思いますまあ例えて申しますと、私共はこうして御結界奉仕をさせてもらうここでじっと神様のお守りをさせて頂く、気分のよか時は有難いけれども、もう本当にそれこそ十分でも二十分でも、もう座っちゃおられんごと、じゅずないものを感じる時もある。
今こそ そんな事感じませんけれど、椛目時代は朝から四じ迄、ぶっ通しに座っとった時代がありました、それこそ座りぬかせて頂く、もう夏などは、兎に角椛目は暑かったですが、それこそ背中からもう、だらだら汗が流れる、それこそ背中に熱いようの物を感じる時でも、信心辛抱させて頂いて、初めの間は辛かったけれども、それが信心辛抱の徳とでも云うのだろうか、その事がかえって有難うなった。後からは、それこそ熱いような汗が出とるかと思うと、前からは熱いような有難涙がこぼれよる、事実です、それは。
ですから明日又、御結界に奉仕させて頂くという事が、言わば楽しゅうなってくる、その修行を懐かしむ、今日も又座らんならん、と云うのではなくて、その事を懐かしむ心、そういう心で云うなら御事柄としての頂き方、いわゆる尊ぶ頂き方。
神様の働きだからそれは合掌して受けなければならんと云う事。そんなら合掌して受けるという事は、それを尊い事だと分かると同時に、その事を懐かしむ二つの心が頂けた時に、合掌する事の姿になるのです。この事はいっちょ、きつかばってん頂きぬかにゃ、神様の言わばお働きだから、御事柄じゃから、御事柄と云やおるけれども、やっぱ苦しいでしょうが、それを段々信心辛抱しぬかせて頂いておるとです、それが又有難い、こよない有難いものに、こよない懐かしむ心になってくると云うところにです、合掌する姿というのがそこにある訳です。
合掌して一切を拝むという事はね、そういう事なんです、自分の都合の良い事やら有難い事は、有難く拝んで受けている、有難う御座いますと云うて云いよる、けれどもちっときつい事やら自分に分の悪い事やらは、拝んで受けよるごとあるばってん、拝んで受けとるとじゃない、只、腹はもうよじれるごと腹の立つけれども、これを神様の御事柄と思うとるけん受けとると、と云うのです。
そして御の字は付けるけれども、実際は片一方の手で拝んどるようなものなんです。そういう例えば修行のです、その懐かしむ心、そういう懐かしむ心と尊ぶ心とが一つになった時に、初めて合掌で受けたという事になる。
そういう心で私は、お道の教師が布教させて頂いたら、いよいよ世の中を清めて行く事が出来るだろう、浄化して行く事が出来るだろう、そういうような心で、私が最近云っておる宗教改革と云うような言葉などで申しますけれども、そういう心で改革を計っていくならば、必ずおかげになっていくだろう、そういう心で自分の改まりもです、そういう心を持ってするなら、案外安易に改まる事が出来るだろう。
尊ぶ心と懐かしむ心、そういう心を合掌と、そういう一切を合掌させて頂けれる、そういう心で家の中の浄化を計らなければならない、社会の浄化を計らなければならない、改めていくところは、そういう心で改めていかなければならない。
改革も、そういうような心の状態を持って、例えば革命でも流血革命とか云う強引に、血を流してからといったものであっては勿論事、宗教の事ですから、あってはならないのですけれども、そんなら宗教の歴史をひもといてみますとです、そういう宗教革命がなされる時には、必ず血を見ているのです、宗教戦争なんです。
私は教祖金光大神の素晴らしいところは、そこだと思うのです。私共が一切を、云うなら合掌して受けれるような心、尊ぶ心、しかもその修行を懐かしむ心、そういう心を持ってするならばです、革命も又有難い中に出来ていくだろう、又、社会を浄化していくのも有難い有難いで浄化していく事が出来るだろう。
ここ迄私は聞いて頂いて、はゝあこういう信心を、いよいよ大きな信心だと分からしてもらい、そこから一心の信心を迷う事無く続けていかなければなりません。
一心と定めいと、もうここに本当の大きな信心とはここに極まったという、そういう御理解だったと思いますよね、今日の御理解は、その内容に梅が欠げておるなら梅、桜が欠げておるなら桜の信心を柳が欠げておるなら柳を、本気で身に付けさせて頂こうという、信心精進がなされていくといったような事を申しました訳ですね。
私は今日皆さんに、これが出来る出来んは別として、そこに私共の姿勢が置かれてです、こういう信心を、自分の家庭の信心の、特に自分の子供にもです、娘にでも息子にでもです、信心とはこうだこういう生き方になれば人間が、必ず幸せになれるんだと、いよいよ大きなおかげにつながっていくのだという事だけは、自分自身が分からせてもろうて、これを伝えておきたいと思いますね。
娘にでも息子にでも、息子が家別れをすりゃ、もう心配がいらんこの事だけを思い込ませて頂いておけば、娘を嫁にやるときに、嫁入り道具よりもこの事を、まず思い込ませておくならば、どういう中に於いても大丈夫でしょうが、今日大きな信心の内容について申しました。しかも、これでなければ絶対の幸せはあり得ないんだとしかも只幸せと云うてもです、これはいよいよ無限大に広がっていく、無限大におかげの頂けていくところの、言わばおかげの根本になる、間違いの無い考え方なのだ、出来る出来んは別です。
だから皆さんもそれを体験しておいでられてです、いかなければなりませんけれども、子供達、そんなら娘やら息子にもです、金光様の御信心の一番大事な事は、勿論私共が幸せになる事なんです。大きなおかげを頂いていく事なんです、そん為にはこゝだけはマスタ―しときなさい、ここだけは自分のものにしときなさい、そしてこれからは、あんた達の信心によってどういう事があっても、あったたんびに信心を、この行き方で進めて行きなさい、と云うことをです、私は子供に伝えて行かなければならん、子供も又、それを次の孫に伝えて行く事でしょう。
いよいよ日勝り月勝り、年勝り代勝りのおかげを頂いて行くと云う事が、私は大きな信心だと思う、信心によらなければ、そういうおかげは頂けない、為には私共がそれを頂いて、それを云うなら今日の御理解だけの事ですから簡単な事、話にすれば三十分で済む事なんです、ですからこの事を繰り返し繰り返し、娘にも息子にも教え込んでおかなければいけない。
絶対のものなのだから、御事柄として受けなければならない事もそれを信心修業によって、それを今度は御事柄じゃから受けにゃならんといったものではなくて、懐かしむ心までがです、出来てくるんだと云う事を教えておかなければならない、そして一切を合掌して受けて行く行き方、そこからいよいよ限りない、いわゆる無限大のおかげにつながっていくんだ、いよいよ本当の幸せにつながっていくんだと云う事を、自分も分かり、子にも孫にもそれを教え伝えて行かなければいけない、それを体験は別として、だと云う事も分からせるだけでも素晴らしい。
子供達が孫達が、何に直面した時に、それが本当だという事を分かっておればです、聞いておけばです、そこに姿勢を向けて行くでしょう、そして自分達が本気でそういう、光昭のことじゃないですけれども、楽なほうへ楽なほうへと行くともう、本当に楽の方からぬけられない、こんな事じゃいかんと思いよる、それだけでいゝ、チャンスがあったらスパッと立直る事が出来る、チャンスがあったらいよいよ本当のところへ行く事が出来る、それには根本的なところが教えてあるから、こんな事じゃいけんと云う心も起こってくる訳なんです。
だからこれを本当に、娘から息子にもです、本当にひとつ分からせられるだけの信心を頂かせてもらう、そういう信心を今日は、大きな信心と聞いて頂きましたですね、 どうぞ。